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FTM作家・結州桜二郎(ゆいすおうじろう)の小説ブログ。

皆既日蝕⑦

僕たち夫婦には周囲に秘密にしていることがあった。僕たちは子供を設けることが出来ないという問題を抱えていたのだ。それは、僕の身体的な問題――実は僕は性同一性障害で、出生時の性別は女性であった。美結と出会う以前に性別適合手術を受け男性に戸籍変更もしたものの、男性としての生殖能力は根本的に有していない。つまり、僕の遺伝子を受け継いだ子供がこの世に生まれることは不可能なのだ。このことに関しては恋愛関係になる以前に美結には告げており、それを受け入れてもらった上で交際が始まった。そして、美結も美結で交際前から子供への嫌悪感を僕に話していた。子供は好きじゃないから産みたくないのだと散々口にしていた。悪い表現を使ってしまえば僕たち二人の間には需給関係が成立しており、結婚相手として互いに都合が良かったのかもしれない。少なくとも僕は子孫を残せないことに対して根深い劣等意識を抱いていたので、彼女のような特異な考えを持つ女性としか結婚は疎か新たな恋愛に踏み切るつもりもなかった。そのような理由が美結との結婚を意識させた一因であったことを否定はしない。
 しかしながら、現代では医療も進歩しており、不妊治療の一環として人工受精をして出産することも可能であるし、そのようにして設けた子供を性同一性障害の夫婦の嫡出子として認められた判例があることも僕は知っていた。なので、今後もし美結が母性に目覚めるようなことがあった場合には、僕たちが選ぶべき手段はそれしかないだろうと心の片隅で秘かに決意はしていた。

 どんよりとした空気が夕刻まで家中に垂れ込み、夜通し外出して疲れている筈の美結は、昼寝もせずソファーに横たわってずっとスマートフォンをいじっていた。
「何見てるの?」
「花火大会もう間に合わないね」
僕が話し掛けても一切応じず、口を利こうともしない。堪え兼ねた僕は美結のスマートフォンを斜め後ろから覗き見た。美結が閲覧していたのは、人工受精について詳しく書かれたサイトだった。
 一先ず夜になってしまったので、僕が夕飯を作り二人で食べた。食欲があまりない様子で少量しか食べなかったのだが、美味しいかどうか訊ねると首を縦に振り、完食してくれた。食後、無表情でテレビをぼうっと眺めている美結に、僕は切り出した。
「子供のこと、さっきも言ったけど選択肢は一つしかないと思うんだ。人工受精で産むなら美結の遺伝子を持った子供が産まれる訳だし、それが俺たち夫婦にできるベストな手段だと思う。それか若しくは、孤児を引き取って里親になるか……」
美結はすかさず返した。
「そんなの嫌だ。二人の子供じゃなきゃ意味ないし、大体誰の精子貰うの?」
「普通の不妊の夫婦では親族から提供してもらうってこともあるみたいだけど、俺はそれは関係性が複雑になるから正直嫌だ。貰うなら精子バンクかな」
「誰の子か分からない子供なんか欲しくない」
美結は僕の目を見ようとはせず、俯いたまま駄々をこねる子供のようにひたすらに僕の意見を突っぱねる。
「自然なかたちで子供が産みたい。そうじゃなきゃいくら私の遺伝子が入っていても自分の子だと思えないし愛せない」
「自分が何を言ってるのか分かってる?それが出来ないからこうやって話し合ってるんだし、大体子供が出来ないのを承知の上で俺と結婚した訳じゃん。だったら俺たち夫婦に出来る選択肢の中から選んでやっていくしか方法はないと思うんだけど。それに今はラテもまだまだ小さくて躾しなきゃいけないんだからそれどころじゃないだろ」
僕が正論で返すと、美結は黙り込んでしまった。このようなやりとりを堂々めぐりのようにしている間に、夜も更け寝る時間になった。とてもじゃないが一緒に寝る気分にはなれず、僕はリビングのソファー、美結は寝室のベッドと別々の部屋で眠ることになった。
 なかなか寝付けなかった僕は美結から浴びせられた言葉の一つ一つを吐き気を催す程に反芻していた。子供のことについて責め立てられるのはこれまでの人生で何度目だろうか。あんなにも子供への嫌悪感を語っていた美結から、結婚して一年経ったこのタイミングでまさか自然妊娠で子供が産みたいと言われるとは思ってもみなかった。しかも、犬を飼い始めたことがきっかけで母性が芽生えるとは、何と奇妙な皮肉だろうか。僕に対する愛情が無くなってしまったから、このようなことを言い出したのではないのだろうか。様々な思考が糸屑のように頭の中で縺れ合った。やがて睡眠薬の効果が現れ、人為的な眠りへと落ちていった。

 

 

 

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皆既日蝕⑥ 

この様に友達と出掛けているという状況下でしつこく連絡が来ると、いくら心配されているのが分かっていても、疎ましく感じるのは当然の心理であり、実際に自分が逆の立場であったとしたらきっと途中から無視をすることだろう。だが、僕は自分がされて嫌なことを、病的な支配欲と抑鬱による心細さから平然とやってのけた。酔っ払っていたからという理由で済まされる問題ではない。

 リビングのソファーでうたた寝をしてしまっていたが、朝方になってはっと目覚めた。始発の時間をとうに過ぎている。しかし、まだ帰って来るとの連絡は来ていない。結局午前十時過ぎ頃まで連絡がつかず、美結が家に帰ってきた時には正午を回っていた。
 今からバスに乗ると連絡が入ったので、バス停まで迎えに行き到着を待っていた。やがて車通りの少ないひっそりとした道路の彼方にバスが現れ、こちらに向かってゆっくりと進んで来た。車内の一番後ろの座席に座っている美結の姿を見つけた。しかし、実家の近所に住んでいる筈の友達が乗っていない。美結は一人で帰ってきたのだ。バスから降りた美結は無表情な顔付きで無言のまま僕の元へと歩いてきた。昨日出掛ける時に左薬指に嵌めていた結婚指輪が外されていることに、僕はすぐに気が付いてしまった。納得がいかなかったので、家に着くなり真っ先に美結を責めた。
「始発で帰ってくる約束だったのに、なんで昼過ぎまで帰って来れなかったんだよ。一人でバスに乗ってたけど本当にアカネちゃんと二人で居たの?」
美結は最初憔悴した表情でぼうっと一点を見詰めていたが、詰問し続ける僕に突如怒りの言葉をぶつけてきた。
「私のこと信用してないの?昨日何回私に連絡したかわかってる?私は昼間だろうが夜中だろうが悠二が遊びに行ってる時にしつこく連絡したことなんてないよね。私が心配してなかったとでも思ってるの?」
確かに言われてみればそうだ。美結は僕が友達や家族に会いに出掛けている間は必要最低限の連絡しかしてこない。本当は一人で不安と闘っていたのに優しさと配慮から連絡を控えてくれていたのだと、その時初めて気が付いた。しかし、昼まで帰って来なかったことに対して「心配かけてごめん」の一言がなかったことに怒りを煽られ、反撃に出てしまった。
「指輪はどうしたの?昨日出掛ける時してたよね?指輪してたら何か不都合なことでもあった?」
「酔っ払って失くしたら困るから外してしまっておいた」
美結は呆れたような表情で深い溜息を吐き、こう続けた。
「実は私が頼んだんだ。家に帰りたくないから朝まで一緒に居てって。アカネは仕事があるから八時頃解散したけど、その後はずっとマックに一人で居た」
僕はあまりの衝撃に一瞬言葉を失ったが、自分で思い当たる非を認め素直に謝り、食い下がった。
「しつこく連絡しちゃったからだよね。本当にごめん。一人で過ごすことが久しぶりだったし、美結に何かあったらどうしようって心配で……。ごめん。もうしないから」
謝る僕を見ようともせず、美結はひたすらに黙り込む。そして、長い沈黙を切り裂きこう切り出した。
「実はさ、言いたいことがあるんだ」
普段見せることのない神妙な面持ちを見るにつけ鳥肌が立つ程の恐怖心に襲われたが、僕は必死で気丈に振る舞い一呼吸してから訊いた。
「何?どうした?」
またしばらく沈黙が続く。灼き付くような陽射しがレースのカーテン越しに照りつけ、冷房をつけているにも拘わらず、僕は全身にびっしょりと嫌な汗をかいていた。美結がゆっくりと口を開く。
「子供のことなんだけどさ。要らないって散々言ってきたけどやっぱり欲しくなってきた。ラテちゃん育てていると苦しい。子供の代わりにと思ってたけど、こんなのやっぱり違うよ」
全く予想をしていなかった言葉だった。ラテを迎え入れて一ヶ月半が経ち、それまでの夫婦二人きりの生活から協力し合いながら子犬を育てる生活となり、僕たちの関係性は家族のようになりつつあった。そんな日々を僕は幸せだと思っていたし、美結もきっと同じ気持ちでいるだろうと信じていた。そして何より鬱状態の僕は、ラテが居てくれることで癒されていた。仕事の悩み、美結に対する不満等もあったが、家庭が在るという充足感が僕の生きる原動力となっていた。僕はしばらく考え込んでから、こう返した。
「じゃあ、手段は一つしかないよね。詳しく調べてみるから一緒に頑張ろう」
美結は何も答えず、黙り込んだまま俯いていた。

 


 

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皆既日蝕⑤

第三章

 迎えた実務体験の日。八月四日。この日から悪夢は始まる。

 昼過ぎから先方との約束となっていたのだが、それが終わったら久しく会っていない幼馴染みの子と飲みに行ってくると出掛け際に告げられた。話によると、仕事のことでその子が悩んでいるようで、相談に乗ってほしいと急に誘われたのだという。美結には学生時代から関係が続いている友人が全く居らず、その子が唯一の何でも話せる親友だった。僕は快く「いってらっしゃい」と見送った。
 夕方、美結から実務体験が好感触だったので、恐らくこのまま採用してもらえそうだと電話があった。声色は明るく、
「悠二のお陰だよ。ありがとう」
と、いつになく上機嫌な調子だったので、こちらも安堵した。普段あまり夜間に遊びに出掛けない上に美結は見た目も派手な為、変な輩に目をつけられはしないかと心配だったので、
「明日は花火大会があるから今年こそは行こう。終バスまでには帰ってくるんだよ」
と、念を押すように言って電話を切った。

 独りの夜を過ごすことに慣れておらず、軽い鬱状態が未だに続いていた僕は、この一晩をどう過ごしたら良いのか不安になり、とりあえず髪を切りに行こうと思い立った。最寄駅まで十五分かけて自転車で向かい、駅から程近い美容室で調髪してもらった。そして、適当にラーメンや定食などを食べて家に帰ろうかと思ったのだが、不安感から煙草を買い、チェーン店の居酒屋へ一人で入った。
 平日の早い時間帯ということもあって店内は閑散としており、喫煙エリアは貸切状態だった。僕は美結と交際を始めてからおよそ三年近く禁煙をしていた。寿命を少しでも延ばせるように、少しでも長く一緒に居られるようにとの約束だった。だが、僕は客の居ない居酒屋の片隅でピースライトの封を開け、火を点けた。自らの弱さと寂しさから二人の間の堅い約束をいとも容易く破ってしまったのだ。久しぶりに吸った煙草はくらくらと僕を陶酔させ、猛烈な不安感を紛らわしてくれた。とても美味しいと感じたが、その鼻から抜ける風味は、どこか罪の香りがした。人は禁忌を犯す時、往々にしてそれと引き換えに甘美なる恍惚を得るものだ。自分の中でいつの間にか美結が必要不可欠な存在となっていたこと、美結が居ることがどれだけ当たり前になっているのかをつくづく思い知った。僕には職場で過ごす鬱々とした時間と、帰宅して美結と過ごす時間の二つしかなかったのだから、或る種の禁断症状のようなものが現れても不思議ではなかった。
 つまみを三品と、ハイボール米焼酎のロックを飲み干し酔いが回ってきたところで、ラテに餌を与える時間となった為、急いで自宅アパートまで引き返した。
 帰宅後、餌を食べさせてから戯れて遊んでいたのだが、まだ生後四ヶ月の子犬なのですぐに疲れて寝てしまった。その頃、丁度終バスの時刻が近付いていたのだが、美結から、友達が泣いてしまっているのでカラオケに場所を移す、今夜は帰れそうにない、といった内容の連絡が入った。出来ることなら朝帰りなどしてほしくはなかったが、友達がそんな状態では仕方ないと思い、
『わかった。危ないから気をつけるんだよ。始発で帰ってきて』と、返信した。
 その後、居酒屋で飲んだ酒が切れ始め、とてつもない不安と孤独が僕を襲った。家にあった白州をハイボールやロックにして浴びる程飲んだが、眠れない。睡眠導入剤は手元にあるが、こんなにも酒を飲んでしまった後で服用するのは危険だと思い、ひたすら酒にすがった。かなり酔っていたので記憶は朧げではあるが、心配で何度も美結に電話をしてしまった。しかし、一度たりとも出てはくれなかった。

 


 

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皆既日蝕④

転職先が決まってからの僕の行動は早かった。まずは料理長を始めとする社員に退職したい旨を伝え、その後社長に大事な話があるから近々時間を作ってもらえないかとメールをした。しかし、一日待っても返信がなくはぐらかされていると覚ったので、一方的に有休消化の後八月十五日付けで退職すると意志表明のメールを送った。そして、直後に退職届を郵送で本社宛に送りつけた。
 現場の意見としては、いくら一ヶ月半前だとはいえ急過ぎる、もっと先延ばしには出来ないのか、せめて後任者を採用してから引継が完了するまでの間は居てほしい。そのようなことを繰り返し言われたが、社長からの僕宛のレスポンスが一切なく、全て料理長を介してのやりとりだった為、僕は怒りに心を支配され、全く聞く耳を持とうとしなかった。労働基準法の定めによれば、辞職は十四日以上前に申し出れば可能で、退職は個人の自由である。一ヶ月半も前に申し出ているのだからそれまでに後釜を見つけるよう努めることは事業主の義務であって、自分が責められる理由が見当たらなかった。責めるのなら僕ではなく、この事態を招いた張本人である社長を責めて下さいと伝えた。
 結果として一悶着あったものの僕の意見が通り、希望通り八月十五日付けで退職することになった。有給休暇が十七日残っており、公休が本来ならば八日なので、七月後半から八月の退職の日までの僕の通算の休日日数は二十五日。本来なら先に六日間働いてしまって残りを療養を兼ねた休暇に充てたいところではあったが、現場の人手不足を考慮して飛び飛びで出勤するということでこちら側が譲歩し決着がついた。


 以上のような経緯で次の仕事が始まるまで、久しぶりの閑暇を過ごすこととなった。それまで休みは週一日で、毎日朝から終電まで働きづくめだった僕にとってこの休暇は、療養と長きに渡り蓄積されてきた憂さを晴らす為の貴重な期間であった。美結と愛犬のラテと三人でゆっくりと日々を過ごすことで、僕の病状は次第に快方に向かいつつあった。

 結婚記念日が過ぎ七月も終わりに差し掛かった或る日、パート先のシフトの組み方に不満を抱いていた美結が、転職して正社員として働きたいと突如話を持ち掛けてきた。まだ子犬であるラテの世話のこともあったので当初僕は難色を示したのだが、美結が見つけてきた求人情報の中に、募集要項に記載されていた条件が僕たちのライフサイクルにぴたりと当て嵌まるものが一件あった。
「ここならラテの世話や散歩も分担しながらやって行けそうだね」
僕は全力で応援しようと心に決めた。
 一次選考の書類審査を無事通過した美結はその翌々日、早速面接を受けることとなった。僕たちは早速二人で面接の対策を練った。僕は職場でアルバイトの採用面接を任されていたということもあり、採用したいと思われる第一印象、言葉遣いや仕草等、異業種ではあるがシミレーションすることが出来た。
 面接では僕のアドバイス通りの人格を演じきれたようで、美結は見事に一次面接に受かった。先方の意向としては本来ならば経験者を採用したかったらしいが、美結の人柄を気に入ったとのことで、後日現場で実務を体験してみてからお互い合意の上で雇用契約を結ぼうということになったとの報告を受けた。

 

 

 

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皆既日蝕③

第二章

 美結との婚約後、居酒屋チェーン勤務の昼夜逆転の生活では今後の夫婦生活に支障をきたし兼ねないのではと危惧した僕は、タイ食材輸入卸業社が経営するタイ料理店に転職し勤務をしていた。店長という役職すら与えられてはいなかったものの、ホール責任者として店長業務は僕に全て一任されていた。そのような状況下で、二〇一四年四月にリニューアルオープンをすることが決まった。それまで二店舗しか展開していなかったのだが、僕が配属されていなかったもう一方の店舗が経営不振により閉店することとなったので、それに伴いメニュー内容を見直し、内装も変えてイメージを一新させようという狙いであった。
 ホール責任者であり事実上店長であった僕は、日々の店の営業や店長業務の傍らで、内装面は勿論のことドリンクメニューの見直しと新メニューの考案、更には料理・ドリンク両方のメニューブックとポスターのデザインや説明文の入稿・校正等のデザイナーとのやりとりも全てやらねばならず、体力も精神力もかなり極限まで来ていた。その上、それに加えてウェブでの告知や飲食店掲載サイトの更新もする必要があったので、休憩など全く取れず、通勤時間中も満員電車で人ごみに揉まれながらスマートフォンでメニューの説明文を書いてデザイナーに送ったり、ウェブに更新する原稿を書いたりと、家に着くまで息を吐く暇のない日々が続いた。多店舗展開しているまともな飲食業の会社なら統括マネージャーや広報担当者が居たりするので分担することが出来たのだろうが、飲食店を大々的に営む為の礎が築けていないところに無理難題を次々と押し付けられ、明らかに僕は心身共に限界に達していた。

 リニューアルオープンに際しかなりの労力を要し疲弊したが、いざ新メニューでの営業を開始するとお客様からの評判は上々で、料理は勿論のこと、僕がレシピを考案したオリジナルのカクテルとノンアルコールカクテルも、彩りが良く可愛らしいと女性客を中心に多くの注文を頂くことが出来た。リニューアル後、売上も更に上り調子となり、遂にはレストラン開店以来最高の売上を達成することが出来た。このことは僕に大きな自信と誇りとを齎し、努力が報われたことによる達成感が胸の中に充溢した。
 しかしながらリニューアルで来客数、売上等が伸びてきている中で、どういう訳か社長の僕に対する重圧が徐々に過剰なものとなっていった。日々の日報に対する批判や僕個人を罵倒するような内容を全社員宛てにメールで送る等され、屈辱感から帰り道、自転車を走らせながら涙を流す日もあった。記念すべき三十歳の誕生日には、アルバイトに降格してやると言われた。
 最初のうちは叩けば伸びるタイプだと誤認してそのような言葉をぶつけてきているのだろうと理解するよう努めた。見返してやろうという気持ちにもなった。だが実際のところ僕は自尊心が極めて高く、褒められないと伸びない性分なので次第に苛立ち、また、この状況がいつまで続くのだろうという不愉快さと不安から、睡眠障害の一症状である中途覚醒と、片頭痛を中心とした自律神経失調症と思われる症状が酷くなり始めた。美結に相談し、五月末の公休の日に、三年前に一時期通院していた精神科の門を再び叩いた。

 その後も、処方された眠りを深くする作用のある抗鬱剤を服用しながら日々重圧に耐え凌ぎ、仕事に勤しんでいた。しかし、六月中旬の或る日、僕の公休の日だと知っている上で朝から本社に顔を出せと社長から命令されたことにより、遂に我慢が限界に達した。
 前々から決まっていた予定をわざわざ変更し本社に出向いた。すると、二十分近く待たされた後に社長が会議室に入ってきた。リクライニングチェアに深々と腰掛けるや否や、酒焼けした声で罵倒と叱責の言葉を驟雨の如く浴びせ、それが終わったかと思うと今度は自分がどれだけ偉大で権力があるのかを語り始める。いつものお決まりのパターンだ。そのあまりに醜い姿に呆れ返り、パワーハラスメントの餌食にされているということを終ぞ自覚した僕は、怒りを腹の内で消化することが出来ず、社長を睨みつけた。無言の睨み合いが恐らく三分程続いた後、
「辞めたければ辞めろよ。俺は去る者は追わないから」
と、言われた。暴言を吐いてその場ですぐにでも辞職してしまいたい衝動に駆られたが、美結と愛犬の存在が頭を過ぎり、しばらく沈黙を保った。そして、ただひたすら心にもない謝罪の言葉を並べ同調の姿勢を示した。僕には守るべきものがあるのだから、次の仕事先が決まっていない状態で感情に任せて辞める訳にはいかないと冷静な判断を下せたからだ。
 しかしながら、何を言ってもどれだけ追い詰めてもこいつは辞めないだろうと思われている節をじりじりと感じ取り、歯痒くて口惜しくて仕方がなかった。自己愛性パーソナリティー障害の人間の自己愛を満たす為の道具にされることほど屈辱的で腹立たしいことはない。何故なら僕自身もまた自己愛性パーソナリティー障害の素質があることを自覚しており、自己愛を高く保つことによってコンプレックスを誤魔化しながら生き抜いてきた人間だからだ。自己愛の強い人間同士が良好な主従関係を築ける筈がない。衝突し合い、反撥し合うことは避けられないのである。少なくとも僕は酒焼けした声で権力を振りかざされたところで何も説得力を感じられなかったし、尊敬するに値しない男の下僕を演じ続けられるほど従順ではなかった。

 

 それからと言うもの、僅かな空き時間と公休を利用し、職場の同僚たちには秘密で必死になって転職活動をした。兎に角この会社から逃れて月々生活していけるだけの給与を稼げさえすればそれで良い。職種などこだわっている余裕はなかった。目先のことしか考えておらず、逃げ出すことにだけ固執していた。もう、うんざりだったのだ。
 ついには職場に向かうだけで気分が悪くなり、メールの着信があると社長からの叱責のメールが来たのではないかと不安になる状態にまで追い詰められた。食欲は徐々に減退し、過敏性腸症候群で腹を下した。重度の片頭痛で休憩時間中に嘔吐をしたことも何度もあった。
 薬がなくなった頃、精神科に再びかかり、今度は前回処方された抗鬱剤に加えて睡眠導入剤抗不安薬、頭痛薬、整腸剤が処方された。
 そのような心身共に不調の状態ではあったが、一社目の面接であっさり採用が決まった。職種はコンビニエンスストアの店長候補である。店長業務を現職でやっていることに加えて広報活動もしていることを話し、将来的に店舗経営をしてみたいと心にもない展望を語った。酷い抑鬱状態ではあったがなるべく笑顔を作り努めて明るく振る舞ったので、面接の時点から好感触だった。数日後、面接先から採用したいとの電話が入り、退職の為に一ヶ月半待ってもらうということで合意をした。

 

 

 

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皆既日蝕②

 饂飩が好きだと前に聞いていたので、富士吉田の人気店に赴いたがお盆期間中だったこともあり、生憎店は休みだった。
「ちゃんと調べてから来れば良かった。ごめんね」
「全然良いよ。ドライブしてるだけで十分楽しいし」
美結は笑顔でそう言ってくれた。敢えて明確な言葉にせずとも彼女の方にも好意があることがひしひしと感じられた。
 帰り際、闇夜に抱かれてすっかりと暗くなった車の中で、僕の方から愛の告白をし交際を申し込んだ。僕たちは固く手を握り合い、しっかりと互いの想いが重なり合っていることを実感した。
 この時から二人の関係は始まり、一年後には婚約も兼ねて結婚を前提に同棲生活を開始するに至った。些細な喧嘩をすることはあっても大喧嘩をしたことは一度もなく、僕らの関係性は極めて良好であった。波長が合うから会話の内容にはいつも事欠かなかったし、年が離れているお陰で過剰にぶつかり合わずに済んだのかもしれない。
 僕が見初めた通り、美結は歳月を重ねるにつれてどんどん綺麗になっていった。日増しに自分の理想の女性像へと変貌していく彼女を、僕は独り占めしたいと思った。
 同棲から約一年後、共同生活をした上で相性に問題がないと互いに判断した僕たちは、美結が体調を崩して突如正社員として働いていた仕事を辞めたこともきっかけとなって、遂に婚姻関係を結ぶに至った。

 しっかり者で美人でよく尽くしてくれる美結は、僕にとって自慢の妻だった。結婚後、貯金を始め翌年四月に美結の実家の近くのアパートに転居した僕たちは、仲睦まじく暮らしていた。
 初めての結婚記念日当日である七月十六日。約一ヶ月前にオーダーをしておいた結婚指輪を受け取りに、二人で表参道に在るジュエリーショップへと赴いた。僕たちの入籍は急なものだったので、まだ挙式は疎か指輪の交換もしていなかったのだ。太陽をモチーフにしたシャンパンゴールドの指輪をお互いの指に嵌め合って、僕たちは永遠の愛を誓い合った。そして、六月に飼い始めたばかりの愛犬といつまでも幸せな日々を送ることを約束した。

 しかし、その幸福の絶頂の僅か数週間後に事態は一変する。

 

 

 

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皆既日蝕①

 幾千もの流れ星のように乱反射した陽光が群青の空から降り注ぎ、嚆矢の如く心臓を貫いた。幸福だった筈の僕は突如地獄の底へと墜落していったのだ。仮初めの太陽は消失し、僕の両目から光を奪った。そして一つの悟りを与えたのだ。この世に存在する真実は一つのみであるということを。

 


第一章

 二〇一四年七月、僕は結婚一周年を迎えていた。

 妻の美結とは三年前に僕が正社員候補として採用された大手居酒屋チェーンの店舗で知り合った。彼女はそこでアルバイトをしていたのだ。六歳年下の彼女はまだまだ幼く、出会った当初は恋愛対象にはなり得ないだろうと思っていたが、共に働き会話を重ねていくにつれて人間性が垣間見え、惹かれていった。さばさばとした外面的な性格とは裏腹に心の奥底に深い闇を抱えていて、その意外性に僕は魅了された。この子とならまた恋愛することが出来るかもしれない。否、この子と恋がしたい。そう思った。
 奇しくも出会いから丁度二ヶ月目の日に僕たちはドライブデートをした。美結の自宅近くのドラッグストアーの駐車場まで迎えに行く約束をしていたので、到着してから車を停めてメールを送った。すると十分程で美結はやって来て、助手席に腰掛けるなり僕にペットボトルの紅茶と緑茶を差し出した。
「どっちがいい?」
僕は紅茶を受け取った。
「ありがとう」
 この日の美結は仕事に来る時の簡素な服装とはまるで違い、化粧も明らかに普段より濃かった。僕の為にお洒落をして来てくれたんだな、と嬉しく思った。他愛もない話をしながら車を走らせ、山中湖の辺りまで行き湖畔を眺めた。真夏の快晴の太陽を照り返した水面は眩く光り輝いてきらきらと美しく、都会では感じられないような爽やかな風が頬を打って、なんだかこそばゆかった。ちらりと覗き見た美結の横顔は、プラチナ色の陽光を受けて透き通るように白く、しかし、くっきりと浮かび上がって僕の目を捉えた。まだ二十一歳であったが、彼女の顔立ちは美しく、先天的な美貌を兼ね備えていた。それまで年上の女性にばかり恋い焦がれてきた僕であったが、彼女の日本人女性らしいシャープな目鼻立ちと、ワンレングスのロングヘアが似合う形の良い額と、何処かつんとした雰囲気に見惚れた。

 

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