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FTM作家・結州桜二郎(ゆいすおうじろう)の小説ブログ。

皆既日蝕⑩

翌日、八月七日。ラテの狂犬病予防接種を前々から予定していたので、美結の実家に車を借りに行った。まだ和解も出来ておらず、僕の鬱状態が酷かったので、実家には上がらずに義母に玄関先で挨拶だけして掛かりつけの動物病院まで夫婦で向かった。
 狂犬病予防接種とフィラリア予防薬を処方され、すぐに診療は終わったのだが、午後一番で美容院の予約を取ったので、一度ラテを家に置いてから隣駅まで車で送ってほしいと突如言われた。車は実家の車庫に戻して鍵はポストに入れておけば大丈夫だから、と。確かに時間効率的にも交通費の面でもその方が良い事は歴然だったので、僕は快諾した。そして美結を駅前で降ろし、美結の実家まで直帰して自宅へと戻った。美容院でかかる時間なんてたかが知れている。夕刻には家に帰って来るだろう。そう思っていた。
 午後二時過ぎ頃、四日の日に会った幼馴染みのアカネちゃんがその後どうなったのか心配しているので、このまま最寄駅で落ち合ってちょっとお茶をしてくると連絡が入った。そして夕方六時頃には、義母の具合が悪いので面倒を診るから今夜は泊りがけになる、といった内容のメッセージが来た。今朝挨拶をした時には元気な様子だったし、持病は特にないので疑心暗鬼になったが、ここでまた執拗に電話を掛けたりしたら神経を逆撫でてしまうだけだと思い、必死で我慢をした。
 また酒を飲み、友人と連絡を取りながら気を紛らわして平常心を保とうとした。疑り深い性分を捩じ伏せ、美結を信じよう、そう思った。日付が変わり午前一時を回った。酔いが覚めたので睡眠導入剤を服用し無理矢理眠りに就いた。

 明くる朝、八月八日。午前十時頃、『お母さんの具合はどう?』とメッセージを送るとすぐに返信が来た。これから姉と一緒に病院へ連れて行くので帰るのは昼過ぎになるとの内容だった。僕は自己暗示をかけるかのようにして美結を信じていたので、『分かった。しっかりお母さんの面倒を看てあげてね』と返信し、極力スマートフォンをいじらないようにして、ラテと遊んだり家事をするなどして午前中を過ごした。午後になっても一向に連絡がなく不安感がほとばしるように心臓を貫いたが、それでも僕はスマートフォンに触れないようにしていた。これ以上心を掻き乱されたくないという一種の防衛本能がそこには働いていたのかもしれない。
 やがて太陽が姿を潜め始め、時計を見ると午後四時半をちょうど過ぎたところであった。さすがに何かがおかしい、そう察した僕を未だ嘗てない壮絶な不安感が襲った。最後に連絡が来てから約六時間。本来ならこの日は二人で市内の七夕祭に出掛けようと約束をしていたということもあり、我慢が限界に達した僕は立て続けに電話を掛けた。四日の晩と同じく、やはり何度掛けても出なかった。僕は手元にあった抗不安薬を四錠服用した。毎食後一錠の処方で既にこの日は朝昼と服用済みだったのでオーバードースである。薬が効き始め気丈になった僕は、祭に行くという前提で甚平に着替えた。夕刻の生暖かく纏わり付くような大気がじんわりと僕の背中を汗で濡らし、一昨日の夜に飛び降り自殺を謀ろうとした急勾配の階段のフェンスを尻目に、早歩きで美結の実家へと向かった。

 

 

 

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皆既日蝕⑨

その後、二人共に心神耗弱状態となり、昼食も摂らず美結はソファーに凭れ掛け、僕はウォークインクローゼットの隅でしゃがみ込み頭を抱えていた。閉ざされた小部屋の中、猛暑の熱気が気怠さを煽り、より一層僕の思考を鈍らせる。
 何時間そのような時を過ごしただろうか。夕刻が近付きリビングへ入ると、相変わらずソファーに凭れ、斜め下の方をぼんやりと見詰めている美結の姿がそこには在った。目は虚ろで顔色は蒼白く、明らかに健常な人間の表情ではない。その姿を見て只事ではないと察した僕は、美結を自分が通院している精神科へ連れて行こうと思いたった。きっと子犬を飼育することによる謂わば育児ストレスようなものから、突如子供が欲しいなどという飛躍した発想に至ったのではないかと感じたからだ。ろくに眠りもせず、食欲も減退し、無表情なその様は精神を病んでいるとしか思えない。僕は確信し、病院へアポイントメントをとった上で、二人でバスと電車を乗り継ぎ病院へと向かった。
 幸いにも病院内には二名の患者しかおらず空いていた。まずは僕の方から診察室に呼ばれた。前回の診察時からの経過を一通り話した後、ここ最近の美結の言動や、それを受けての僕の心理状態を伝えた。先週までは精神的にかなり落ち着いてきていて鬱々とした気分も大分解消され、睡眠の質も良くなり回復期にあると自覚していたが、ここ数日の妻の態度の急変でかなり耗弱しており、見捨てられるのではないかという不安感が強く夜も眠れず、今日も出勤予定だったのに仕事に行けなかったことを伝えたところ、新たに抗鬱剤をもう一種類夕食後に服用してみようということになった。
 続いて美結が呼ばれ診察室に入っていった。二人一緒の方が良いかと訊かれたが美結が拒否した為、個別での受診となった。時間にするとおよそ十五分くらいだったかと思う。思っていた以上の診察時間に、何を話されているのだろうと不安に駆られたが、僕は俯いて両の手を組み、祈るようにして診察が終わるのを待っていた。やがて、ドアが開き美結が涙で目を腫らし出てきた。そして僕が再び診察室に呼ばれ、医師にこう告げられた。
「最初、診察室に入ってきた時の表情からして鬱かなと思ったんだけど、話を聞く限りどうやら違うね。奥さんに処方できる薬はないよ。あとは夫婦間の問題だから二人で話し合うか第三者を交えるしかない。申し訳ないけど医者如きが介入出来る問題ではない」
僕は愕然とした。僕には抗鬱剤が新たに処方されて、美結には何も薬が出ない。つまり、可笑しなことを言っているのは僕の方ということになる。納得がいかなかったが医師を責めても仕方がないので、
「分かりました。お互いに納得のいく道を進んでいけるよう話し合ってみます。お騒がせしてすみません。有り難う御座いました」
そう言って僕たちは病院を後にした。
 薬局で処方薬の受け取りが済むと午後六時を回っていた。二人共食事を作る気力がなかったので、気分転換も兼ねて外食をして帰ろうということになった。レストランでの食事中も、帰りの電車やバスに揺られている時も、僕の方から一方的に無駄話を振って空気を和ませようとしたが、美結は一度たりとも笑わず、必要最低限の受け答えしかしなかった。

 やがて自宅アパートに到着し、美結はソファーに凭れ、僕はラテのトイレシートを替える等世話をした。遊びたい盛りのラテは二人が帰ってきたことに大はしゃぎしてくれたが、僕に精神的余裕はなく、少しだけ戯れて遊んで、心の中で「ごめんね」と謝りながらすぐにゲージに戻した。ソファーでスマートフォンをいじっている美結の姿に苛立った僕は、
「おい」
と、美結に向かって語気を強めて呼び掛けた。すると、無言でぼんやりとこちらを見て来たので益々腹が立って僕はこう続けた。
「ラテのこと可愛くないの?ろくに世話をしようとしないよね。俺が深夜に仕事から帰ってきた時もこういう場面何度もあったよね」
「そんなことない。ちゃんとやるべきことはしてる」
小声で溜息まじりの声でそう返した美結はうんざりとした表情をしていた。その表情が僕の激情に更なる拍車を掛けた。
「犬の面倒もろくに見れない人間が子供が欲しいだなんて笑わせるな。子供を産んで育てるのはもっともっと大変なことなんだぞ。そういうことまでちゃんと考えた上で子供が欲しいって言ってるの?悪いけど、俺にはお前が子供を育てられるなんて思えない」
美結は僕を直視して黙っている。睨んでいるともとれる、鋭い眼差しだ。
「本当は他にも理由があるんじゃないの?俺に対する不満があるなら何でも言ってくれよ。直すようにするから。それかやっぱり好きな男でも出来た?」
まくし立てる僕の言葉を遮るように、美結の深く大きな溜息が部屋中に響き渡った。
「私には鬱病患者の扱い方が分からない」
そうきっぱりとした口調で捨て台詞を吐き、リビングを出てトイレへと行ってしまった。
鬱病患者の扱い方が分からない』
この言葉は僕を酷く傷付けた。自分は狂っている人間であり、それが故に最も劣等意識を感じている部分を攻撃され、自然妊娠をしたいと妻にせがまれなくてはならないのか。パワーハラスメントを受けながらも家庭の為に必死で歯を食いしばって働いてきた結果、鬱状態となってしまったのに、それが原因で一番の理解者であるべき妻が僕を見捨てようとしているのか。謂わば全ての事象が点在している状態で、僕には繋ぎ合わせることが出来なかった。そこに昨夜の縺れ合った糸屑が不意に飛び込んできて、頭の中はぐちゃぐちゃになった。正しく、混乱状態に陥った。
「ちょっと出掛けてくる」
トイレから出てきた美結に僕はこう告げ、何も持たずに家を出た。後ろから直ぐさま美結が追い掛けて来た。
「ちょっと待ってよ。何処に行くの」
僕は何も答えず、近くの河川敷の方を目指しとぼとぼと歩いた。
「ねえ、待ってよ」
腕を掴まれ引き止められたが、僕は歩くのを止めようとしない。
「お願いだから、待ってってば」
ここ何日も耳にしていなかったはっきりとした大きな声で美結が言った。顔を見ると今にも泣き出しそうな表情で目を潤ませて僕を見ている。一瞬はっとしたが、
「川が見たいんだ。お願いだから一人で行かせてくれ」
僕はこう答え、美結の手を振りほどいた。河川敷の方角から吹いて来た生ぬるい風が僕たちの間を通り抜け、埋められない溝を感じさせた。再び歩き出すと少し離れて美結がつけて来ていることが分かり、丘の下へと続く急勾配の階段の手前で振り返って、怒鳴り付けた。
「ついて来るなって言っただろ。子供子供ってなんだよ。別れたいならはっきりそう言ってくれ。お前が幸せになる為に俺が邪魔なら死んでやるよ」
階段沿いの落下防止用の錆び付いた緑色のフェンスに僕はよじ登った。美結は必死で僕の身体にしがみついてそれ以上登らせないように阻止する。
「悠二が今ここで死んだら私は一生不幸になるよ。お願いだからやめて」
美結の哀訴の叫び声が希死念慮に支配された脳髄に響き渡り、僕は海底の岩窟を出入りする軟体動物のような緩やかな動きでフェンスからなだれ落ちた。そして、そのまま階段に座り込んだ。美結も寄り添うように少し離れた位置に座っていたが、やがて通行人が横を通り過ぎると、
「帰って話そう」
美結はそう言って僕の手を引き、自宅まで戻った。
 家に着くなり美結は言った。
「お願いだからさっきのようなことは二度としないと約束して」
僕は首を縦にも横にも振らず、ひたすら感情に任せて泣いていた。明言はしないものの答えは出ているも同然だと思ったからだ。美結の態度や言動からは同情しか感じ取ることが出来なかった。愛情に起因するものは何も無かった。極度の心神耗弱状態だったので、まだ早い時間帯ではあったが美結の勧めもあり睡眠導入剤を服用して眠りに就いた。

 

 

 

 

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皆既日蝕⑧

翌日、八月六日。この日は久しぶりに出勤をしなければならない日だったので、朝七時に起床し八時には家を出て片道一時間半かかる勤務地まで向かった。すると、満員電車に揺られている最中に美結からメッセージが送られて来た。『今日からしばらく実家に帰ります』。久しぶりの出勤を前にしてただでさえ緊張状態と抑鬱感で必死だったところに、妻からこのようなメッセージが送り付けられてきた僕は半狂乱になって、勤務地の駅で下車するなりすぐに美結に電話をした。たかがアパートから徒歩五分の実家に帰ると言われただけなのに、まるでこのまま全てが終わってしまうかのような気がして、パニックで自分を抑えられなかった。子供が作れない自分はまたしても捨てられる――。蓋然的な予見が不安を煽り、とてもじゃないが平静を保つことなど出来なかった。
「実家に帰ってどうするの?そのまま帰って来ないつもりだったら俺はこのままここで死ぬから」
「何言ってるの?仕事は?」
「こんな生きるか死ぬかの瀬戸際で仕事なんか出来る訳がない。ここは大都会だ。いくらでも死ぬ方法はある」
僕は取り乱していた。腕時計を見ると、既に出勤時刻を過ぎてしまっている。美結を失う不安と、社会人としての体面を自らの手によって穢しかけている現状への焦りが肩を組んで差し迫ってきて、一層のことこの世界から消えてしまいたいという身勝手な願望が頭の中を占拠した。理性と羞恥心の所在を忘れてしまった僕は、大都会の高層ビルの麓で涙を流して泣いていた。
「お願いだから死なないで。仕事は良いから生きて帰ってきて。そうじゃなきゃ私が死ぬから」
美結は涙ながらに叫んだ。電話越しに響いた美結の泣き声を聞き、居ても立っても居られなくなった僕は、勤務地の駅から自宅アパートまで慌てて引き返した。そして、その車中でメールアドレスを変えたりSNSのアカウントを削除する等、全ての人間と連絡を遮断出来る状態にした。社会から、世界から、自分という存在を晦ませてしまいたかった。何もかも終わってしまえば良いと思った。古傷を抉られて野に放たれることが決まっているのに、これ以上傷付かなくてはならない道理が有り得ようか。急行の電車に乗車していた僕の心は、疾風の如く破滅へと駆り立てられていた。
 最寄駅に着いたところで美結に電話をしたが、出なかった。もしものことがあってはならないと思い、死に物狂いで自転車を走らせ自宅に到着したが、美結の姿は見当たらない。再び電話を掛ける。またしても出なかったが、間もなく帰ってきた。表情は憔悴しきっている。昨日バスから降りて来た時と同じ陰鬱な顔付きだ。
「何処行ってたんだよ」
「ちょっと散歩してた」
「こんな暑いのに?」
「うん」
リビングで各々腰を掛け、それぞれに思いを巡らせ憂鬱さに心を弄ばれていた。沈黙を破ったのは美結だった。
「仕事平気なの?」
「うん。仮に行ったところであの状態では仕事にならないし、逆に迷惑だったと思う。あと一日出勤予定の日があるけど、とてもじゃないけど顔向け出来ない。連絡手段は絶ったし、最低な辞め方だけどもう仕方ないよね」
そう言って僕は再び黙り込んだ。社会人として最低なことをしてしまったという自責の念と、出勤直前に心を乱すようなことをしてきた美結を責めたい気持ち、そして何より感情に振り回される自分自身の脆弱さに腹が立った。その複雑に絡み合った感情は希死念慮に直結したが、一先ず先に美結を問い質さなければ気が済まず、口を割った。
「子供の話、昨日一緒に考えていこうって言ったよね。なんでそれなのに実家に帰る必要があるのかな。俺のこと好きじゃなくなった?……やっぱり一昨日の夜、他の男と居たんじゃないの?そんなに自然妊娠がしたいならそいつと作ってくれば良いじゃん。俺の嫡出子として認知するよ」
しばらく間を置いてから美結がぼそりと呟いた。
「やっぱり私のこと信用していないんだね」

 

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皆既日蝕⑦

僕たち夫婦には周囲に秘密にしていることがあった。僕たちは子供を設けることが出来ないという問題を抱えていたのだ。それは、僕の身体的な問題――実は僕は性同一性障害で、出生時の性別は女性であった。美結と出会う以前に性別適合手術を受け男性に戸籍変更もしたものの、男性としての生殖能力は根本的に有していない。つまり、僕の遺伝子を受け継いだ子供がこの世に生まれることは不可能なのだ。このことに関しては恋愛関係になる以前に美結には告げており、それを受け入れてもらった上で交際が始まった。そして、美結も美結で交際前から子供への嫌悪感を僕に話していた。子供は好きじゃないから産みたくないのだと散々口にしていた。悪い表現を使ってしまえば僕たち二人の間には需給関係が成立しており、結婚相手として互いに都合が良かったのかもしれない。少なくとも僕は子孫を残せないことに対して根深い劣等意識を抱いていたので、彼女のような特異な考えを持つ女性としか結婚は疎か新たな恋愛に踏み切るつもりもなかった。そのような理由が美結との結婚を意識させた一因であったことを否定はしない。
 しかしながら、現代では医療も進歩しており、不妊治療の一環として人工受精をして出産することも可能であるし、そのようにして設けた子供を性同一性障害の夫婦の嫡出子として認められた判例があることも僕は知っていた。なので、今後もし美結が母性に目覚めるようなことがあった場合には、僕たちが選ぶべき手段はそれしかないだろうと心の片隅で秘かに決意はしていた。

 どんよりとした空気が夕刻まで家中に垂れ込み、夜通し外出して疲れている筈の美結は、昼寝もせずソファーに横たわってずっとスマートフォンをいじっていた。
「何見てるの?」
「花火大会もう間に合わないね」
僕が話し掛けても一切応じず、口を利こうともしない。堪え兼ねた僕は美結のスマートフォンを斜め後ろから覗き見た。美結が閲覧していたのは、人工受精について詳しく書かれたサイトだった。
 一先ず夜になってしまったので、僕が夕飯を作り二人で食べた。食欲があまりない様子で少量しか食べなかったのだが、美味しいかどうか訊ねると首を縦に振り、完食してくれた。食後、無表情でテレビをぼうっと眺めている美結に、僕は切り出した。
「子供のこと、さっきも言ったけど選択肢は一つしかないと思うんだ。人工受精で産むなら美結の遺伝子を持った子供が産まれる訳だし、それが俺たち夫婦にできるベストな手段だと思う。それか若しくは、孤児を引き取って里親になるか……」
美結はすかさず返した。
「そんなの嫌だ。二人の子供じゃなきゃ意味ないし、大体誰の精子貰うの?」
「普通の不妊の夫婦では親族から提供してもらうってこともあるみたいだけど、俺はそれは関係性が複雑になるから正直嫌だ。貰うなら精子バンクかな」
「誰の子か分からない子供なんか欲しくない」
美結は僕の目を見ようとはせず、俯いたまま駄々をこねる子供のようにひたすらに僕の意見を突っぱねる。
「自然なかたちで子供が産みたい。そうじゃなきゃいくら私の遺伝子が入っていても自分の子だと思えないし愛せない」
「自分が何を言ってるのか分かってる?それが出来ないからこうやって話し合ってるんだし、大体子供が出来ないのを承知の上で俺と結婚した訳じゃん。だったら俺たち夫婦に出来る選択肢の中から選んでやっていくしか方法はないと思うんだけど。それに今はラテもまだまだ小さくて躾しなきゃいけないんだからそれどころじゃないだろ」
僕が正論で返すと、美結は黙り込んでしまった。このようなやりとりを堂々めぐりのようにしている間に、夜も更け寝る時間になった。とてもじゃないが一緒に寝る気分にはなれず、僕はリビングのソファー、美結は寝室のベッドと別々の部屋で眠ることになった。
 なかなか寝付けなかった僕は美結から浴びせられた言葉の一つ一つを吐き気を催す程に反芻していた。子供のことについて責め立てられるのはこれまでの人生で何度目だろうか。あんなにも子供への嫌悪感を語っていた美結から、結婚して一年経ったこのタイミングでまさか自然妊娠で子供が産みたいと言われるとは思ってもみなかった。しかも、犬を飼い始めたことがきっかけで母性が芽生えるとは、何と奇妙な皮肉だろうか。僕に対する愛情が無くなってしまったから、このようなことを言い出したのではないのだろうか。様々な思考が糸屑のように頭の中で縺れ合った。やがて睡眠薬の効果が現れ、人為的な眠りへと落ちていった。

 

 

 

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皆既日蝕⑥ 

この様に友達と出掛けているという状況下でしつこく連絡が来ると、いくら心配されているのが分かっていても、疎ましく感じるのは当然の心理であり、実際に自分が逆の立場であったとしたらきっと途中から無視をすることだろう。だが、僕は自分がされて嫌なことを、病的な支配欲と抑鬱による心細さから平然とやってのけた。酔っ払っていたからという理由で済まされる問題ではない。

 リビングのソファーでうたた寝をしてしまっていたが、朝方になってはっと目覚めた。始発の時間をとうに過ぎている。しかし、まだ帰って来るとの連絡は来ていない。結局午前十時過ぎ頃まで連絡がつかず、美結が家に帰ってきた時には正午を回っていた。
 今からバスに乗ると連絡が入ったので、バス停まで迎えに行き到着を待っていた。やがて車通りの少ないひっそりとした道路の彼方にバスが現れ、こちらに向かってゆっくりと進んで来た。車内の一番後ろの座席に座っている美結の姿を見つけた。しかし、実家の近所に住んでいる筈の友達が乗っていない。美結は一人で帰ってきたのだ。バスから降りた美結は無表情な顔付きで無言のまま僕の元へと歩いてきた。昨日出掛ける時に左薬指に嵌めていた結婚指輪が外されていることに、僕はすぐに気が付いてしまった。納得がいかなかったので、家に着くなり真っ先に美結を責めた。
「始発で帰ってくる約束だったのに、なんで昼過ぎまで帰って来れなかったんだよ。一人でバスに乗ってたけど本当にアカネちゃんと二人で居たの?」
美結は最初憔悴した表情でぼうっと一点を見詰めていたが、詰問し続ける僕に突如怒りの言葉をぶつけてきた。
「私のこと信用してないの?昨日何回私に連絡したかわかってる?私は昼間だろうが夜中だろうが悠二が遊びに行ってる時にしつこく連絡したことなんてないよね。私が心配してなかったとでも思ってるの?」
確かに言われてみればそうだ。美結は僕が友達や家族に会いに出掛けている間は必要最低限の連絡しかしてこない。本当は一人で不安と闘っていたのに優しさと配慮から連絡を控えてくれていたのだと、その時初めて気が付いた。しかし、昼まで帰って来なかったことに対して「心配かけてごめん」の一言がなかったことに怒りを煽られ、反撃に出てしまった。
「指輪はどうしたの?昨日出掛ける時してたよね?指輪してたら何か不都合なことでもあった?」
「酔っ払って失くしたら困るから外してしまっておいた」
美結は呆れたような表情で深い溜息を吐き、こう続けた。
「実は私が頼んだんだ。家に帰りたくないから朝まで一緒に居てって。アカネは仕事があるから八時頃解散したけど、その後はずっとマックに一人で居た」
僕はあまりの衝撃に一瞬言葉を失ったが、自分で思い当たる非を認め素直に謝り、食い下がった。
「しつこく連絡しちゃったからだよね。本当にごめん。一人で過ごすことが久しぶりだったし、美結に何かあったらどうしようって心配で……。ごめん。もうしないから」
謝る僕を見ようともせず、美結はひたすらに黙り込む。そして、長い沈黙を切り裂きこう切り出した。
「実はさ、言いたいことがあるんだ」
普段見せることのない神妙な面持ちを見るにつけ鳥肌が立つ程の恐怖心に襲われたが、僕は必死で気丈に振る舞い一呼吸してから訊いた。
「何?どうした?」
またしばらく沈黙が続く。灼き付くような陽射しがレースのカーテン越しに照りつけ、冷房をつけているにも拘わらず、僕は全身にびっしょりと嫌な汗をかいていた。美結がゆっくりと口を開く。
「子供のことなんだけどさ。要らないって散々言ってきたけどやっぱり欲しくなってきた。ラテちゃん育てていると苦しい。子供の代わりにと思ってたけど、こんなのやっぱり違うよ」
全く予想をしていなかった言葉だった。ラテを迎え入れて一ヶ月半が経ち、それまでの夫婦二人きりの生活から協力し合いながら子犬を育てる生活となり、僕たちの関係性は家族のようになりつつあった。そんな日々を僕は幸せだと思っていたし、美結もきっと同じ気持ちでいるだろうと信じていた。そして何より鬱状態の僕は、ラテが居てくれることで癒されていた。仕事の悩み、美結に対する不満等もあったが、家庭が在るという充足感が僕の生きる原動力となっていた。僕はしばらく考え込んでから、こう返した。
「じゃあ、手段は一つしかないよね。詳しく調べてみるから一緒に頑張ろう」
美結は何も答えず、黙り込んだまま俯いていた。

 


 

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皆既日蝕⑤

第三章

 迎えた実務体験の日。八月四日。この日から悪夢は始まる。

 昼過ぎから先方との約束となっていたのだが、それが終わったら久しく会っていない幼馴染みの子と飲みに行ってくると出掛け際に告げられた。話によると、仕事のことでその子が悩んでいるようで、相談に乗ってほしいと急に誘われたのだという。美結には学生時代から関係が続いている友人が全く居らず、その子が唯一の何でも話せる親友だった。僕は快く「いってらっしゃい」と見送った。
 夕方、美結から実務体験が好感触だったので、恐らくこのまま採用してもらえそうだと電話があった。声色は明るく、
「悠二のお陰だよ。ありがとう」
と、いつになく上機嫌な調子だったので、こちらも安堵した。普段あまり夜間に遊びに出掛けない上に美結は見た目も派手な為、変な輩に目をつけられはしないかと心配だったので、
「明日は花火大会があるから今年こそは行こう。終バスまでには帰ってくるんだよ」
と、念を押すように言って電話を切った。

 独りの夜を過ごすことに慣れておらず、軽い鬱状態が未だに続いていた僕は、この一晩をどう過ごしたら良いのか不安になり、とりあえず髪を切りに行こうと思い立った。最寄駅まで十五分かけて自転車で向かい、駅から程近い美容室で調髪してもらった。そして、適当にラーメンや定食などを食べて家に帰ろうかと思ったのだが、不安感から煙草を買い、チェーン店の居酒屋へ一人で入った。
 平日の早い時間帯ということもあって店内は閑散としており、喫煙エリアは貸切状態だった。僕は美結と交際を始めてからおよそ三年近く禁煙をしていた。寿命を少しでも延ばせるように、少しでも長く一緒に居られるようにとの約束だった。だが、僕は客の居ない居酒屋の片隅でピースライトの封を開け、火を点けた。自らの弱さと寂しさから二人の間の堅い約束をいとも容易く破ってしまったのだ。久しぶりに吸った煙草はくらくらと僕を陶酔させ、猛烈な不安感を紛らわしてくれた。とても美味しいと感じたが、その鼻から抜ける風味は、どこか罪の香りがした。人は禁忌を犯す時、往々にしてそれと引き換えに甘美なる恍惚を得るものだ。自分の中でいつの間にか美結が必要不可欠な存在となっていたこと、美結が居ることがどれだけ当たり前になっているのかをつくづく思い知った。僕には職場で過ごす鬱々とした時間と、帰宅して美結と過ごす時間の二つしかなかったのだから、或る種の禁断症状のようなものが現れても不思議ではなかった。
 つまみを三品と、ハイボール米焼酎のロックを飲み干し酔いが回ってきたところで、ラテに餌を与える時間となった為、急いで自宅アパートまで引き返した。
 帰宅後、餌を食べさせてから戯れて遊んでいたのだが、まだ生後四ヶ月の子犬なのですぐに疲れて寝てしまった。その頃、丁度終バスの時刻が近付いていたのだが、美結から、友達が泣いてしまっているのでカラオケに場所を移す、今夜は帰れそうにない、といった内容の連絡が入った。出来ることなら朝帰りなどしてほしくはなかったが、友達がそんな状態では仕方ないと思い、
『わかった。危ないから気をつけるんだよ。始発で帰ってきて』と、返信した。
 その後、居酒屋で飲んだ酒が切れ始め、とてつもない不安と孤独が僕を襲った。家にあった白州をハイボールやロックにして浴びる程飲んだが、眠れない。睡眠導入剤は手元にあるが、こんなにも酒を飲んでしまった後で服用するのは危険だと思い、ひたすら酒にすがった。かなり酔っていたので記憶は朧げではあるが、心配で何度も美結に電話をしてしまった。しかし、一度たりとも出てはくれなかった。

 


 

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皆既日蝕④

転職先が決まってからの僕の行動は早かった。まずは料理長を始めとする社員に退職したい旨を伝え、その後社長に大事な話があるから近々時間を作ってもらえないかとメールをした。しかし、一日待っても返信がなくはぐらかされていると覚ったので、一方的に有休消化の後八月十五日付けで退職すると意志表明のメールを送った。そして、直後に退職届を郵送で本社宛に送りつけた。
 現場の意見としては、いくら一ヶ月半前だとはいえ急過ぎる、もっと先延ばしには出来ないのか、せめて後任者を採用してから引継が完了するまでの間は居てほしい。そのようなことを繰り返し言われたが、社長からの僕宛のレスポンスが一切なく、全て料理長を介してのやりとりだった為、僕は怒りに心を支配され、全く聞く耳を持とうとしなかった。労働基準法の定めによれば、辞職は十四日以上前に申し出れば可能で、退職は個人の自由である。一ヶ月半も前に申し出ているのだからそれまでに後釜を見つけるよう努めることは事業主の義務であって、自分が責められる理由が見当たらなかった。責めるのなら僕ではなく、この事態を招いた張本人である社長を責めて下さいと伝えた。
 結果として一悶着あったものの僕の意見が通り、希望通り八月十五日付けで退職することになった。有給休暇が十七日残っており、公休が本来ならば八日なので、七月後半から八月の退職の日までの僕の通算の休日日数は二十五日。本来なら先に六日間働いてしまって残りを療養を兼ねた休暇に充てたいところではあったが、現場の人手不足を考慮して飛び飛びで出勤するということでこちら側が譲歩し決着がついた。


 以上のような経緯で次の仕事が始まるまで、久しぶりの閑暇を過ごすこととなった。それまで休みは週一日で、毎日朝から終電まで働きづくめだった僕にとってこの休暇は、療養と長きに渡り蓄積されてきた憂さを晴らす為の貴重な期間であった。美結と愛犬のラテと三人でゆっくりと日々を過ごすことで、僕の病状は次第に快方に向かいつつあった。

 結婚記念日が過ぎ七月も終わりに差し掛かった或る日、パート先のシフトの組み方に不満を抱いていた美結が、転職して正社員として働きたいと突如話を持ち掛けてきた。まだ子犬であるラテの世話のこともあったので当初僕は難色を示したのだが、美結が見つけてきた求人情報の中に、募集要項に記載されていた条件が僕たちのライフサイクルにぴたりと当て嵌まるものが一件あった。
「ここならラテの世話や散歩も分担しながらやって行けそうだね」
僕は全力で応援しようと心に決めた。
 一次選考の書類審査を無事通過した美結はその翌々日、早速面接を受けることとなった。僕たちは早速二人で面接の対策を練った。僕は職場でアルバイトの採用面接を任されていたということもあり、採用したいと思われる第一印象、言葉遣いや仕草等、異業種ではあるがシミレーションすることが出来た。
 面接では僕のアドバイス通りの人格を演じきれたようで、美結は見事に一次面接に受かった。先方の意向としては本来ならば経験者を採用したかったらしいが、美結の人柄を気に入ったとのことで、後日現場で実務を体験してみてからお互い合意の上で雇用契約を結ぼうということになったとの報告を受けた。

 

 

 

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