-total eclipse-書架

FTM作家・結州桜二郎(ゆいすおうじろう)の小説ブログ。

皆既日蝕⑨

その後、二人共に心神耗弱状態となり、昼食も摂らず美結はソファーに凭れ掛け、僕はウォークインクローゼットの隅でしゃがみ込み頭を抱えていた。閉ざされた小部屋の中、猛暑の熱気が気怠さを煽り、より一層僕の思考を鈍らせる。
 何時間そのような時を過ごしただろうか。夕刻が近付きリビングへ入ると、相変わらずソファーに凭れ、斜め下の方をぼんやりと見詰めている美結の姿がそこには在った。目は虚ろで顔色は蒼白く、明らかに健常な人間の表情ではない。その姿を見て只事ではないと察した僕は、美結を自分が通院している精神科へ連れて行こうと思いたった。きっと子犬を飼育することによる謂わば育児ストレスようなものから、突如子供が欲しいなどという飛躍した発想に至ったのではないかと感じたからだ。ろくに眠りもせず、食欲も減退し、無表情なその様は精神を病んでいるとしか思えない。僕は確信し、病院へアポイントメントをとった上で、二人でバスと電車を乗り継ぎ病院へと向かった。
 幸いにも病院内には二名の患者しかおらず空いていた。まずは僕の方から診察室に呼ばれた。前回の診察時からの経過を一通り話した後、ここ最近の美結の言動や、それを受けての僕の心理状態を伝えた。先週までは精神的にかなり落ち着いてきていて鬱々とした気分も大分解消され、睡眠の質も良くなり回復期にあると自覚していたが、ここ数日の妻の態度の急変でかなり耗弱しており、見捨てられるのではないかという不安感が強く夜も眠れず、今日も出勤予定だったのに仕事に行けなかったことを伝えたところ、新たに抗鬱剤をもう一種類夕食後に服用してみようということになった。
 続いて美結が呼ばれ診察室に入っていった。二人一緒の方が良いかと訊かれたが美結が拒否した為、個別での受診となった。時間にするとおよそ十五分くらいだったかと思う。思っていた以上の診察時間に、何を話されているのだろうと不安に駆られたが、僕は俯いて両の手を組み、祈るようにして診察が終わるのを待っていた。やがて、ドアが開き美結が涙で目を腫らし出てきた。そして僕が再び診察室に呼ばれ、医師にこう告げられた。
「最初、診察室に入ってきた時の表情からして鬱かなと思ったんだけど、話を聞く限りどうやら違うね。奥さんに処方できる薬はないよ。あとは夫婦間の問題だから二人で話し合うか第三者を交えるしかない。申し訳ないけど医者如きが介入出来る問題ではない」
僕は愕然とした。僕には抗鬱剤が新たに処方されて、美結には何も薬が出ない。つまり、可笑しなことを言っているのは僕の方ということになる。納得がいかなかったが医師を責めても仕方がないので、
「分かりました。お互いに納得のいく道を進んでいけるよう話し合ってみます。お騒がせしてすみません。有り難う御座いました」
そう言って僕たちは病院を後にした。
 薬局で処方薬の受け取りが済むと午後六時を回っていた。二人共食事を作る気力がなかったので、気分転換も兼ねて外食をして帰ろうということになった。レストランでの食事中も、帰りの電車やバスに揺られている時も、僕の方から一方的に無駄話を振って空気を和ませようとしたが、美結は一度たりとも笑わず、必要最低限の受け答えしかしなかった。

 やがて自宅アパートに到着し、美結はソファーに凭れ、僕はラテのトイレシートを替える等世話をした。遊びたい盛りのラテは二人が帰ってきたことに大はしゃぎしてくれたが、僕に精神的余裕はなく、少しだけ戯れて遊んで、心の中で「ごめんね」と謝りながらすぐにゲージに戻した。ソファーでスマートフォンをいじっている美結の姿に苛立った僕は、
「おい」
と、美結に向かって語気を強めて呼び掛けた。すると、無言でぼんやりとこちらを見て来たので益々腹が立って僕はこう続けた。
「ラテのこと可愛くないの?ろくに世話をしようとしないよね。俺が深夜に仕事から帰ってきた時もこういう場面何度もあったよね」
「そんなことない。ちゃんとやるべきことはしてる」
小声で溜息まじりの声でそう返した美結はうんざりとした表情をしていた。その表情が僕の激情に更なる拍車を掛けた。
「犬の面倒もろくに見れない人間が子供が欲しいだなんて笑わせるな。子供を産んで育てるのはもっともっと大変なことなんだぞ。そういうことまでちゃんと考えた上で子供が欲しいって言ってるの?悪いけど、俺にはお前が子供を育てられるなんて思えない」
美結は僕を直視して黙っている。睨んでいるともとれる、鋭い眼差しだ。
「本当は他にも理由があるんじゃないの?俺に対する不満があるなら何でも言ってくれよ。直すようにするから。それかやっぱり好きな男でも出来た?」
まくし立てる僕の言葉を遮るように、美結の深く大きな溜息が部屋中に響き渡った。
「私には鬱病患者の扱い方が分からない」
そうきっぱりとした口調で捨て台詞を吐き、リビングを出てトイレへと行ってしまった。
鬱病患者の扱い方が分からない』
この言葉は僕を酷く傷付けた。自分は狂っている人間であり、それが故に最も劣等意識を感じている部分を攻撃され、自然妊娠をしたいと妻にせがまれなくてはならないのか。パワーハラスメントを受けながらも家庭の為に必死で歯を食いしばって働いてきた結果、鬱状態となってしまったのに、それが原因で一番の理解者であるべき妻が僕を見捨てようとしているのか。謂わば全ての事象が点在している状態で、僕には繋ぎ合わせることが出来なかった。そこに昨夜の縺れ合った糸屑が不意に飛び込んできて、頭の中はぐちゃぐちゃになった。正しく、混乱状態に陥った。
「ちょっと出掛けてくる」
トイレから出てきた美結に僕はこう告げ、何も持たずに家を出た。後ろから直ぐさま美結が追い掛けて来た。
「ちょっと待ってよ。何処に行くの」
僕は何も答えず、近くの河川敷の方を目指しとぼとぼと歩いた。
「ねえ、待ってよ」
腕を掴まれ引き止められたが、僕は歩くのを止めようとしない。
「お願いだから、待ってってば」
ここ何日も耳にしていなかったはっきりとした大きな声で美結が言った。顔を見ると今にも泣き出しそうな表情で目を潤ませて僕を見ている。一瞬はっとしたが、
「川が見たいんだ。お願いだから一人で行かせてくれ」
僕はこう答え、美結の手を振りほどいた。河川敷の方角から吹いて来た生ぬるい風が僕たちの間を通り抜け、埋められない溝を感じさせた。再び歩き出すと少し離れて美結がつけて来ていることが分かり、丘の下へと続く急勾配の階段の手前で振り返って、怒鳴り付けた。
「ついて来るなって言っただろ。子供子供ってなんだよ。別れたいならはっきりそう言ってくれ。お前が幸せになる為に俺が邪魔なら死んでやるよ」
階段沿いの落下防止用の錆び付いた緑色のフェンスに僕はよじ登った。美結は必死で僕の身体にしがみついてそれ以上登らせないように阻止する。
「悠二が今ここで死んだら私は一生不幸になるよ。お願いだからやめて」
美結の哀訴の叫び声が希死念慮に支配された脳髄に響き渡り、僕は海底の岩窟を出入りする軟体動物のような緩やかな動きでフェンスからなだれ落ちた。そして、そのまま階段に座り込んだ。美結も寄り添うように少し離れた位置に座っていたが、やがて通行人が横を通り過ぎると、
「帰って話そう」
美結はそう言って僕の手を引き、自宅まで戻った。
 家に着くなり美結は言った。
「お願いだからさっきのようなことは二度としないと約束して」
僕は首を縦にも横にも振らず、ひたすら感情に任せて泣いていた。明言はしないものの答えは出ているも同然だと思ったからだ。美結の態度や言動からは同情しか感じ取ることが出来なかった。愛情に起因するものは何も無かった。極度の心神耗弱状態だったので、まだ早い時間帯ではあったが美結の勧めもあり睡眠導入剤を服用して眠りに就いた。

 

 

 

 

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