-total eclipse-書架

FTM作家・結州桜二郎(ゆいすおうじろう)の小説ブログ。

皆既日蝕⑧

翌日、八月六日。この日は久しぶりに出勤をしなければならない日だったので、朝七時に起床し八時には家を出て片道一時間半かかる勤務地まで向かった。すると、満員電車に揺られている最中に美結からメッセージが送られて来た。『今日からしばらく実家に帰ります』。久しぶりの出勤を前にしてただでさえ緊張状態と抑鬱感で必死だったところに、妻からこのようなメッセージが送り付けられてきた僕は半狂乱になって、勤務地の駅で下車するなりすぐに美結に電話をした。たかがアパートから徒歩五分の実家に帰ると言われただけなのに、まるでこのまま全てが終わってしまうかのような気がして、パニックで自分を抑えられなかった。子供が作れない自分はまたしても捨てられる――。蓋然的な予見が不安を煽り、とてもじゃないが平静を保つことなど出来なかった。
「実家に帰ってどうするの?そのまま帰って来ないつもりだったら俺はこのままここで死ぬから」
「何言ってるの?仕事は?」
「こんな生きるか死ぬかの瀬戸際で仕事なんか出来る訳がない。ここは大都会だ。いくらでも死ぬ方法はある」
僕は取り乱していた。腕時計を見ると、既に出勤時刻を過ぎてしまっている。美結を失う不安と、社会人としての体面を自らの手によって穢しかけている現状への焦りが肩を組んで差し迫ってきて、一層のことこの世界から消えてしまいたいという身勝手な願望が頭の中を占拠した。理性と羞恥心の所在を忘れてしまった僕は、大都会の高層ビルの麓で涙を流して泣いていた。
「お願いだから死なないで。仕事は良いから生きて帰ってきて。そうじゃなきゃ私が死ぬから」
美結は涙ながらに叫んだ。電話越しに響いた美結の泣き声を聞き、居ても立っても居られなくなった僕は、勤務地の駅から自宅アパートまで慌てて引き返した。そして、その車中でメールアドレスを変えたりSNSのアカウントを削除する等、全ての人間と連絡を遮断出来る状態にした。社会から、世界から、自分という存在を晦ませてしまいたかった。何もかも終わってしまえば良いと思った。古傷を抉られて野に放たれることが決まっているのに、これ以上傷付かなくてはならない道理が有り得ようか。急行の電車に乗車していた僕の心は、疾風の如く破滅へと駆り立てられていた。
 最寄駅に着いたところで美結に電話をしたが、出なかった。もしものことがあってはならないと思い、死に物狂いで自転車を走らせ自宅に到着したが、美結の姿は見当たらない。再び電話を掛ける。またしても出なかったが、間もなく帰ってきた。表情は憔悴しきっている。昨日バスから降りて来た時と同じ陰鬱な顔付きだ。
「何処行ってたんだよ」
「ちょっと散歩してた」
「こんな暑いのに?」
「うん」
リビングで各々腰を掛け、それぞれに思いを巡らせ憂鬱さに心を弄ばれていた。沈黙を破ったのは美結だった。
「仕事平気なの?」
「うん。仮に行ったところであの状態では仕事にならないし、逆に迷惑だったと思う。あと一日出勤予定の日があるけど、とてもじゃないけど顔向け出来ない。連絡手段は絶ったし、最低な辞め方だけどもう仕方ないよね」
そう言って僕は再び黙り込んだ。社会人として最低なことをしてしまったという自責の念と、出勤直前に心を乱すようなことをしてきた美結を責めたい気持ち、そして何より感情に振り回される自分自身の脆弱さに腹が立った。その複雑に絡み合った感情は希死念慮に直結したが、一先ず先に美結を問い質さなければ気が済まず、口を割った。
「子供の話、昨日一緒に考えていこうって言ったよね。なんでそれなのに実家に帰る必要があるのかな。俺のこと好きじゃなくなった?……やっぱり一昨日の夜、他の男と居たんじゃないの?そんなに自然妊娠がしたいならそいつと作ってくれば良いじゃん。俺の嫡出子として認知するよ」
しばらく間を置いてから美結がぼそりと呟いた。
「やっぱり私のこと信用していないんだね」

 

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